墨田区 概要
東京23区内のやや北東に位置する。
民話「おいてけ堀」は、昔の墨田区が舞台である。水の郷百選に選ばれている。
2006年に区内の押上・業平橋地区に地上デジタル放送用タワー東京スカイツリーの建築が正式決定。2011年に、建造物では日本一となる高さ610メートルのタワーが完成予定。観光と防災都市のシンボルにし、世界一の観光都市を目指すという、今後一躍注目される区になる。
墨田区 面積 13.75km2
墨田区 総人口 243,415人
(推計人口、2009年5月1日)
墨田区 人口密度 17,700人/km2
墨田区 地図
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墨田区 地理
東京都の東部の区であり、西の区境は隅田川と東の区境は荒川および中川に挟まれた位置にある河川に挟まれた町である。
墨田区 歴史
区の北部と南部では、歴史に大きな違いが見られる。北部は、平安時代ごろから歴史に登場し、室町時代以降は農村地帯として発展を遂げていた。一方、南部は湿地帯であり、人が住むには極めて向かない土地であった。しかし、江戸中心部が1657年(明暦3年)の振袖火事によって焼け野原になったため、防災対策の一環として武家屋敷が当区南部へと移動することとなった。同時に、竪川・大横川をはじめとする河川の掘削や南北割下水(今で言うところの北斎通り近辺に存在した。)や碁盤目状の道路の整備が行われた。 その後、明治になると、1878年(明治11年)に北部は南葛飾郡に編入され、南部は東京15区の一つ・本所区として成立するようになる。また、工業化の波が押し寄せることとなり、北部も南部も開発が進んでいくようになった。1894年(明治27年)には、現在でも重要な交通手段である総武線が開業した。しかし、このように発展してきたが、1923年(大正12年)の関東大震災により、区域の大半が焼失することとなった。特に、元陸軍被服廠跡地(現在の横網町公園など)では、多くの人が避難をしたものの、猛火に遇い、4?5万人といわれる多大な焼死者を出した。
やがて、それらによる被害も復興していくようになり、1932年(昭和7年)には、北部に向島区が誕生することとなった。しかし、第二次世界大戦(特に東京大空襲)によりまたもや区内全土は大きく焼失することとなった。
戦後、1947年(昭和22年)に本所区と向島区が合併し現在の墨田区が誕生した。この区名は、隅田川の堤の通称「墨堤」から墨を、隅田川から田を取ったものであった。1963年(昭和38年)までは、町の復興及び発展とともに人口が増加していったものの、その後は頭打ちとなり減少し始めた。また、町工場も郊外や海外への移転などにともない減少していくこととなった。近年では、これら工場跡地にマンションを建てるなどの開発が進められている。なお、人口は横ばいか微増傾向にある。
「東京都 墨田区」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。
2009年8月02日 (日) 8:08 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org