京都市 伏見区 概要
京都市 伏見区(ふしみく)は、京都市を構成する11区のひとつである。京都市内屈指の住宅地で11行政区中最大の人口を擁する。伏見城城下町の伝統を受け継ぐ商業拠点である一方、京都市中心部や大阪方面へのベッドタウンとしての性格をもつ。
京都市 伏見区 面積 61.62km2
京都市 伏見区 総人口 283,697人
(推計人口、2009年5月1日)
京都市 伏見区 人口密度 4,600人/km2
京都市 伏見区 地図
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京都市 伏見区 歴史
532年(欽明2年) - 欽明天皇、山城一帯に勢力があった秦大津父を紀郡深草里に探し右腕とする
711年(和銅4年) - 秦伊呂具によって深草稲荷神社が創建されるという
861年(貞観4年) - 藤原北家の藤原良房が貞観寺を創建。深草は藤原氏の領地であったとされる
874年(貞観16年) - 聖宝が上醍醐に一寺を建立、醍醐寺となす
952年(天暦6年) - 醍醐寺の五重塔が建立される
延久年間 - 橘俊綱が伏見山荘を営む
1186年(文治2年) - 後白河院が伏見殿御所に移る
1221年(承久3年) - 後鳥羽上皇、伏見城南寺に流鏑馬揃えと称し倒幕の兵を上げる
貞治年間以降、崇光院が伏見山荘を栄仁親王代々の相伝地とし伏見宮家が創設
1426年(応永33年) - 丹波猿楽の矢田座が伏見御香宮の楽頭職を得る
1441年(嘉吉1年) - 伏見など京都近郊の諸村が徳政一揆を起こして洛中に押寄せる
1594年(文禄3年) - 豊臣秀吉が伏見城の城下町として町割、開発を行ない、町の原型が形作られる(現在も区内に残る地名や鍵状に曲がった道路には城下町の特徴が色濃く表れている)
1598年(慶長3年) - 豊臣秀吉、醍醐にて花見を行う
1600年(慶長5年) - 伏見城にて激戦が行われ炎上、関ヶ原の戦いの火ぶたが切られる
1601年(慶長6年) - 伏見城下に銀座が置かれる
1603年(慶長8年) - 徳川家康、伏見城にて将軍宣下を受ける
1607年(慶長12年) - 松平定勝が伏見城代となる
1608年(慶長13年) - 銀座が京都に移される
1613年(慶長18年) - 京都二条と伏見の間に高瀬川が開通する
1617年(元和3年) - 伏見城代が廃止される
1624年(寛永1年) - 伏見城が廃城となる。伏見は奉行が支配する
1625年(寛永2年) - 松平(久松)定綱が淀藩の藩主となる
1694年(元禄7年) - 御香宮神社例祭の芝居・見世物が始まる
1698年(元禄11年) - 伏見奉行・建部内匠頭、伏見舟200艘の新造を許可
1736年(元文1年) - 伏見指物町の銭座で銭貨が作られる
1785年(天明5年) - 伏見騒動
1786年(天明6年) - 伏見町の人口が4万人を数える
1862年(文久2年) - 寺田屋事件
1864年(元治1年) - 長州藩が兵を率いて伏見に入る(禁門の変)
1867年(慶応3年) - 伏見奉行が廃止される
1868年(慶応4年) - 鳥羽・伏見の戦いで伏見城下が戦場となる
1895年(明治28年)2月1日 - 京都駅前(七条)と伏見下油掛の間で、営業用としては日本初の電車である京都電気鉄道開業。(後の京都市電伏見線、1970年廃止)
1905年(明治38年)7月18日 - 旧日本陸軍第16師団が深草に置かれる。
1929年(昭和4年)5月1日 - 旧紀伊郡伏見町が市制施行し伏見市が誕生(京都市へ合併前提での市制施行であった[1])
1931年(昭和6年)4月1日 - 伏見市、紀伊郡深草町、下鳥羽村、横大路村、納所村、堀内村、向島村、竹田村、宇治郡醍醐村の1市1町7村が京都市と合併し、伏見区が誕生
1950年(昭和25年)12月1日 - 乙訓郡羽束師村、久我村を編入
1957年(昭和32年)4月1日 - 久世郡淀町を編入
1967年(昭和42年) - 伏見港公園が都市計画決定。港湾としての歴史に名実ともに終止符を打つ
「京都府 京都市伏見区」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。
2009年8月02日 (日) 8:08 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org