京都府舞鶴市 概要

舞鶴市(まいづるし)は、京都府北部(旧丹後国)の、日本海に面する国際港湾都市。
北近畿を代表する港湾都市であり、行政・経済面において中心的な立場を担う。市内東部にある軍港のほか、造船や硝子といった重厚長大産業都市として発展し、舞鶴都市圏を形成している。

市街は大きく二つに分かれており、軍港から発展した東舞鶴と、田辺藩の城下町・商港から発展した西舞鶴から構成されている。1943年5月26日以前からの舞鶴市に当たる西舞鶴を旧舞鶴市、1943年5月26日以前「東舞鶴市」だった東舞鶴を新舞鶴と呼ぶことがある(以下の本項では、西舞鶴を便宜上「(旧)舞鶴市」と表記する場合がある)。

京都府舞鶴市 地理

日本海に面し、東西に分かれた舞鶴湾のリアス式海岸を臨む都市である。舞鶴湾口を東西から博奕岬と金ヶ岬が固めた、天然の良港である。

福井県(嶺南)との県境には、舞鶴市最高峰である青葉山が所在し、若狭湾から市内東北部に位置する大浦半島にかけては若狭湾国定公園に指定されている。

市の中部には、東部(東舞鶴)と西部(西舞鶴)を分ける五老岳が峙えているため、市街地も東西で分かれて発展している。東舞鶴はかつての軍需都市で、旧軍港や造船などを中心とする重工業地区である。一方、西舞鶴はかつての城下町で、国や京都府の行政機関や工業団地が集中する商工業地区である。このように同じ舞鶴市ながら違った顔を持っており、(旧)舞鶴市と東舞鶴市以来の「東西舞鶴の張り合い気質」が今でも残っている。

西舞鶴の市街地のさらに西側に位置する由良川を境に、天橋立で有名な宮津市などと接している。

総面積が10,320haながら宅地面積は1,143haあり、山林面積は6,410haと山地が多く、森と海に囲まれた都市である。またオオミズナギドリの最後の楽園といわれる冠島は有名。

市内をJR舞鶴線・小浜線が横断し、市西部には北近畿タンゴ鉄道宮津線が走っている。また舞鶴若狭自動車道がある。現在、東舞鶴駅と西舞鶴駅では駅前再開発が行われている。

京都府舞鶴市 気候

日本海側気候に属し、冬季は北西の季節風の影響で気温が低く、雨や雪が多くなりやすいが(代表的な格言:「弁当忘れても傘忘れるな」)、盆地に位置する地域と比べると夏と冬の気温の差が比較的小さく、過ごしやすい気候でもある。舞鶴市の年間平均気温は14.3℃、年間降水量1786.3mmは、全国152気象台の平均値に近い数値である。

京都府舞鶴市 歴史

古代~関ヶ原の戦いまで
 
丹後田辺城(舞鶴城)舞鶴の地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われている。その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれた。古代に国造が分立した時代には、舞鶴は旦波(丹波)の領土に入っていた。ヤマト王権が勢力圏を拡大すると、奈良時代に丹波国は分割され、舞鶴は丹後国加佐郡に入れられた。

南北朝時代には、醍醐寺の荘園が置かれた。室町幕府の成立によって一色満範が丹後国守護職となり舞鶴を含む加佐郡も一色家の統治下に置かれた。以後、丹後国は一色家の領国として代々続く。室町時代後期の応仁の乱において西軍に属した一色氏は没落し、細川氏や若狭武田氏の攻撃をたびたび受けるようになり、家臣の下剋上もあって国内は混乱する。

戦国時代末期の1575年、織田信長から丹波・丹後進攻の命を受けた家臣の明智光秀と細川藤孝らに侵攻され、旧守護職の一色義道は殺され、一色氏は完全に没落した。信長の命により丹後国は細川藤孝の領地となり、舞鶴が本拠地となった。(明智光秀は丹波国を与えられ、亀山(亀岡)を本拠地とした)。細川家の手によって舞鶴は開発され、本能寺の変後も細川家の所領は安堵され、そのまま統治した。

1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦いで、細川家は徳川家康率いる東軍に与した。細川藤孝は当時は小城であった宮津城から、大規模な水堀もあり、守りやすい本城の田辺城(舞鶴城)に移り籠城(田辺城の戦い)。西軍の派遣部隊と対戦したが、後陽成天皇の勅命により、城を敵明け渡した(詳細については細川藤孝の項目を参照)。戦後細川家は、九州の豊前小倉藩に転封された。

舞鶴藩祖・京極高三
京極高知が徳川家康から関ヶ原の戦いの戦功により、丹後一国を与えられ宮津藩(丹後藩)を立藩した。加佐郡(舞鶴)も当初は宮津藩の一部であった。後に京極高知の子らにより丹後は三分割され、京極高三が加佐郡に田辺藩(舞鶴藩)3万5,000石を立藩した。

この出来事が、一般には舞鶴市の始まりとされている。

京極高三は宮津城の築城にともない廃城(一国一城令)となっていた田辺城(舞鶴城)の再構築や、城下町の整備などを行い、その後の舞鶴発展の礎を築いた。のちに京極氏は但馬豊岡藩へ移封となったが、その後は京極高三の娘婿である牧野富成が丹後田辺藩を継ぎ、牧野氏3万5,000石の城下町として幕末まで栄え続けた。

 明治から第二次世界大戦まで
 
1933年(昭和8年)に行われた昭和天皇の舞鶴行幸。舞鶴鎮守府を訪問。明治維新翌年の1869年(明治2年)に版籍奉還が行われ、その後、紀伊田辺藩との同一藩名を解消するため太政官より田辺藩の名称変更を命じられ、同年6月に田辺城の雅号・舞鶴城に因んで舞鶴藩に改称した。1871年(明治4年)には廃藩置県により、西舞鶴は舞鶴県の県庁所在地となったが、同年10月には豊岡県に編入され、1876年(明治9年)に京都府へと編入された。

1873年(明治6年)には舞鶴藩の家老であった河村真六によって、舞鶴藩の藩校であり多くの学者を輩出した明倫館が明倫小学校として開校し、1889年(明治22年)に市町村制が導入されると加佐郡舞鶴町(西舞鶴)が誕生した。その後1901年(明治34年)10月には、軍事的要地として東舞鶴に舞鶴鎮守府が設置され、初代長官には東郷平八郎が就任した(東郷が生み出したとされる肉じゃがは、一説には東舞鶴が発祥地とされる)。それに合わせ東舞鶴の浜村などでは大規模宅地開発が計画され、京都市に模して碁盤目状の市街地が形成され(南北に一条から九条、東西に軍艦の名前が使われる)、多くの海軍官署が設置された(日本海軍の駆逐艦『雪風』は舞鶴での建造である)。

軍都として順調に発展を遂げた舞鶴であったが、1923年(大正12年)2月のワシントン海軍軍縮条約締結に伴い、舞鶴鎮守府は海軍要港部に格下げされ、同時に海軍工廠も工作部に縮小され、一時期人口が減少、市況は沈滞した。同年9月には関東大震災で被災した横須賀市にあった海軍機関科士官を養成する海軍機関学校が移設されることになり、1936年(昭和11年)7月には、再び舞鶴要港部が鎮守府に格上げされると、活況を呈し、人口はピークに達した。


現在でも舞鶴市内にいたる所に海軍の遺跡が存在する。1943年(昭和18年)になるといよいよ戦局が激化すると、舞鶴鎮守府は日本海軍の重要拠点として強化される事となり、東舞鶴市(東舞鶴地区)だけではなく、旧舞鶴市(西舞鶴地区)にも海軍諸施設が多数立地するようになった。また舞鶴海軍工廠では艦船を中心に蛟龍などの特殊兵器も生産するなど軍需生産拠点としても機能強化が図られ、両市が一体となって大軍港都を建設することを海軍が強く要請。旧舞鶴市側は難色を示すが、市役所の位置など諸条件を提示、東舞鶴市も了承したことから、「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」すべて京都府知事に一任し、舞鶴市海軍記念日にあたる同年5月27日に東西舞鶴両市は合併した。市役所は東舞鶴市中舞鶴支所に置かれることとなり、人口は15万人を超え、日本海側有数の大都市として重要な地位を占めるに至った。

戦線が激化するにつれ、舞鶴は後方支援都市として軍需産業が勃興し、人口も増加したが、1945年(昭和20年)7月29日、突如としてアメリカ軍が来襲、海軍工廠を中心に舞鶴を空襲した。また翌日も舞鶴港を中心に大規模な空襲に見舞われ、多数の死傷者を出した。

1945年(昭和20年)8月15日、終戦。

戦後はアメリカ進駐軍舞鶴分遣隊が駐屯、舞鶴港が政府の在外邦人引き揚げ港に指定され、大陸からの引き揚げの拠点となった。1945年(昭和20年)から13年に渡って66万人余りの引揚者が舞鶴に降り立ち、懐かしの母国の土を踏みしめた。その頃の岸壁の母は有名。現在は、当時の引揚桟橋があった平に、舞鶴引揚記念館が建っている。

 戦中から東西分離運動
 
軍需物資を運ぶために建設された旧中舞鶴線。(現在は跡地に遊歩道が整備されている)舞鶴は日本海側唯一の軍事都市として、軍事施設が両舞鶴市に跨がるように設置されるなり、軍都一括管理の重要性が増した。そこで1943年(昭和18年)に海軍は東西両舞鶴市に合併を要請し、それを受けて(旧)舞鶴市と東舞鶴市が1943年5月27日に合併。新しい舞鶴市が誕生した。当時の人口は154,953人。

しかし、前述のように、城下町・商業都市として発展し、加佐郡の中心都市と自負する(旧)舞鶴市(西舞鶴)と、鎮守府が設置され、軍需都市として発展した旧東舞鶴市(東舞鶴)では、住民気質が全く異なり、舞鶴市東西分離運動が活発化した。同時期、戦時体制下に軍により進められた市町村合併の見直しを認める法改正があり、1949年(昭和24年)11月に西舞鶴地区より東西分離要請書が提出されるに至った。1950年(昭和25年)3月には西舞鶴地区にて住民投票が行われ、賛成7,046票、反対6,070票、棄権4,483票と賛成多数で舞鶴市をふたたび東西に分割する案が決議された。京都府議会は「京都北部の中心都市としてだけでなく、府下の唯一の大港湾都市建設に万進すべき」との決議を採択し、東西分離案を否決した。

 加佐町編入から現在
 
日本海の要となる舞鶴海上自衛隊1957年(昭和32年)に舞鶴市と関係の深かった加佐郡加佐町を編入して現在の舞鶴市が形成され、国政調査において初めて人口が10万人を超え、京都府内では京都市に次ぐ規模の都市になり、北近畿の中核都市としての地位を確立した。しかし、近年の人口は減少傾向が止まらず、現在では京都府南部の宇治市・亀岡市に追い抜かれている。

現在でも海上自衛隊舞鶴地方総監部(1952年設置)や第八管区海上保安本部(1948年設置)があり、国防拠点都市としての性格と、舞鶴港が1951年(昭和27年)に重要港湾に指定、また1995年(平成7年)には日本海側港湾では初めてFAZ(輸入促進地域)の指定を受けるなど、中国や韓国、ロシアなど定期コンテナ航路を有する国際貿易港を持つ交流・物流都市としての性格、また中丹広域振興局や近畿財務局などが立地する行政都市として発展を続けている。

平成20年4月、海上自衛隊所属である南極観測船「しらせ」がユニバーサル造船にて新造され、進水式が執り行われた。

京都府舞鶴市 産業

舞鶴市の製造業事業所数は2002年現在で326ヶ所、建設業事業所数は531ヶ所、卸小売・飲食店数は2,390ヶ所である。そもそも舞鶴市の産業は造船やガラス、木材を中心とした臨海型の重厚長大産業が中心であり、近時では造船業の好況で活気がある。製造業全体では2700億円の経済規模があり、北近畿では最大の規模であるものの、大企業を除くと650億円しかなく、中小零細企業は少ない。ちなみに工業製品別では第1位が窯業(ガラス)で、約800億円規模であり、続いて飲料缶、輸送機器(造船)、木材産業となっている。

なお第一次産業への従事者は約3,400人で全体の7.3%、第二次産業は約14,300人で29.9%、第三次産業では約30,000人で62.8%であり、近隣市町村と比べるとサービス業を中心とした第三次産業が盛んである。これは海上自衛隊や地域の中心都市として国・京都府の官公庁が集中しているためであり、商業の街であるとも言える。

最近の大規模な企業進出例として、1990年(平成2年)倉谷地区に市が造成した倉谷工業団地に進出した大手清涼飲料メーカー(キリンビバレッジ)と大手化粧品メーカー(資生堂)や、2004年(平成16年)12月に喜多工業団地へ誘致成功した日本交通の他、2006年には倉谷工業団地の資生堂跡にケンコーマヨネーズが進出している。また2009年にも製造業を中心に企業が進出している。


「京都府 舞鶴市」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。
2009年8月02日 (日) 8:08 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org